ソードアートオンライン2期総括

1期をみて劇場版をみて、それから2期を見ましての感想を。

 

作中を貫いているのは

ゲームでの自分/リアルでの自分、ゲームでの経験/リアルでの経験、左右二者の一致と分裂で、キャラクター達は分裂に悩み一致を選び取る。読者が一致サイドに肩入れしやすいように、作者は限りなくリアルの感覚に近いゲームを設定したり、超かっこいい主人公が一致サイドだったり、そもそも読者層がオタクだからもともと一致サイドだったりして、それがオタクに支持される理由の一つかもしれない。

 

ファントムバレット編

大切な人を守るためにリアルで銃を撃ったシノンが、大切な人を守るためにゲームで銃を撃つことでその過去を克服する。

大切な人を守るためにゲームで人を切ったキリトは、人を切ったことを忘れていた罪悪感を乗り越え、それを自分と重ねることでシノンを救うことができた。

 

SAOという特異な設定がサバイバー達にもたらしたものは大きい。それはキリトでもアスナでも、デスガンでも、エイジでも。

キリトやアスナは、SAOに関連した、即ちゲームとリアルとの一致に関する困難に直面しそれを乗り越える。困難の象徴として何かしら敵キャラが出てくる。今回はデスガンこと新川兄弟。

"敵"は、何かしらゲームとリアルとの一致の仕方が歪んでいる。と思う。

新川兄はSAOでの殺戮者だった自分から戻ってこれなかった。新川弟は現実逃避としてゲームに傾倒しすぎたあまり、プレイヤーを現実に殺したいほど憎んだ。その利害の一致からデスガンが生まれた。

 

仮想世界なんかない、その人がいる場所が現実、だからこそキリトやアスナやサバイバーの面々はリアルでも会ったりして、リアルとゲームの両方での付き合いのバランスがある描き方をしてるのかな、なんて。彼らはたまたま幸せになったからよかったものの、サバイバーの誰もがその危うさを秘めており、彼らのifとして描かれてるとも言える。?てかこれ実質マトリックスなのでは?

 

ところで、新川くんの「ファンタジー系のゲームで夫婦になって子供作って」ってこんなに気持ち悪っぽく聞こえるんだなって面白い。須藤といい彼といいこのキモさと陵辱的なシーンは作者の趣味を感じる。ケーキの箱が潰れてくことで新川くんの愛情の歪さを表現してるのが印象的でした。

 

逆にいうと、VRMMOがリアルとゲームの区別をつけなくさせるほどの狂気の技術であるとも。

ゲームに逃避する、現実に逃避するんじゃなくて、ゲームの私が現実の私の背中を押してくれる、そういう風にありたいということ。それが殺人とかじゃダメなんだけど。ゲームとリアルの適切な関わり方てきな。

 

キャリバー編

映画での100層ボス攻略みたいなファンサービスにも思われる。でもなんか引っかかるところがあって、よくわからない。今度また。

 

マザーズロザリオ編

自由な身体を失った少女が、仮想の肉体を駆り束の間の生を謳歌する。

単に技術が幸せをもたらすアイデアだけでもびっくりしたけど、ゲームとリアルとを繋げる補強としても良い出来。ユウキが幸せだったことを誰が否定できよう。

ユウキが学校に行きたいと言った時、ALO内に学校を作ってみんなで学校ごっこをするのかとでも思ったのだけど、映画に出てきたユイのカメラを使うとは思わなんだ。

ゲーム世界での身体だけじゃなくて、部分的ながらリアル世界での身体をも獲得させてしまうことは、フルダイブ技術の可能性を存分に見せてくれる。

そこにフルダイブ技術に対するママの価値観の変容やアスナとママのやり取りを配置することで、お話により深みや重層さを増してくれている。アスナとユウキの相互的な関係を形成してくれている。

 

 

映画見てて思ったことが、わりと2期で直球表現されてたのは嬉しいようでちょっとがっかりもした。

思ってたよりだいぶ言葉で直球に説明されちゃってたのが、作者の掌で踊らされてた感がある。それでもお話が普通に面白かったのでよき。