アニメを語ること

アニメを語ることに意味を見出したい。そんなに語れているわけではないけれど。

まず、問題意識として、「アニメが消費されている」ことがある。アニメに限らず多くの物語は消費されているけれど。

世間一般に作品が氾濫し消費されていることも問題だが、自分がアニメを消費してしまっていることが1番の問題だと思っている。去年、あるいは前のクールに見た作品の内容があんまり思い出せなかったりするのが問題。

アニメ業界の問題でもあり受容する視聴者側の問題でもあって。

あと、数が多いのは個々のニーズには応えられるとは思うんだけど、他の人と見てるアニメがあんまり被らないから、リアルで同じ作品を語れないというのはある。いや、お前それはネットを使いこなせてないんじゃねーの、というのはごもっともなんですが。。。

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単に好きだから語りたいというのもあるし、好きなものをみんなに知ってもらいたい、認めてもらいたい的な側面もあると思うし、こういう問題意識はとてもよくわかる。

長らくアニメーションにまつわる言説はアート・アニメが主流でした。評論家・研究者にとっては、最初から芸術として作られたそちらのほうが「語りやすかった」のです。テレビアニメは商業主義の産物で、アニメーション特有の「動き」や美術としての美しさよりもストーリーとキャラクターが主体で、大衆消費物として作られているぶん、「芸術」としては劣っているものとされ、長く真面目な批評の俎上に乗らなかったのです。

 しかし「大衆消費物」として作られたものであっても、それなりの歴史の積み重ねがあり、技術の厚みも増して、これを語る言葉がないはずはありません。語られなかっただけなのです。マンガやテレビアニメは、江戸時代の浮世絵に比することができます。浮世絵は初めから「大衆消費物」として描かれ、これを芸術としてみる人はほとんどいませんでした。ヨーロッパ人が初めて浮世家を見た時、日本から輸入した陶器の保護紙としてくしゃくしゃに丸めて使われていたといいます。しかしそこに描かれた絵の美しさにヨーロッパ人は驚嘆したのでした。こうして浮世絵は立派な「芸術」として認知されることになりました。氷川竜介さんがやろうとしたのは、かつての浮世絵的な位置にあったテレビアニメを立派な表現物として同時代的な批評の対象にすることでした。

会社を辞めてアニメ研究家になった理由――氷川竜介の場合。【前編】 | フリーランス、40歳の壁 | ダイヤモンド・オンライン

「文学は個人作業だけど、アニメのクリエイションは集団作業でしょう。それに「ビジネス」として大金で作られる宿命もある。純文学を語る上では夾雑物とされる事象も考慮しないと、アニメの真髄は語れないという想いもあります。」

 

集団作業っていう点に関しては映画も同じだから、映画 が如何に学問になったかというのは参考になるやもしれん

 

 

でも「消費したい欲」も確かにあって、そのお話を初めて見る時の衝撃みたいなものを得たいと思ってる。ネタバレに敏感なのはそういうことだと思ってる。

たくさんのタイトルを見たいという欲もある。今期何見よっかなーって一覧見たら面白そうな作品はいっぱいあるし、世間で話題のアレも見たいなーと思うし、AmazonPrimeやらで見られる過去タイトルも勧められたりなんなりで見たいなーって思う。

数が多いゆえに、体系的に語ることも難しいなと感じる。氷川竜介氏のような引き出しの多さ、生き字引的な知識量は、2000年生まれには持てないという諦めを感じる。

 

 

ところで、現在私は大学で映画を学んでいるのだが、映画を語る(学問する)上で、大きく

①映画史 映画の(技術発展の)歴史

②映画理論 表象作用としての映画

③映画批評 感動に言語で迫る

の3つに仕分けられるようだ。

まずアニメ史を考える上で「アニメ」と「アニメーション」は区別されるべきだろう。

アニメ』と言えばジャパニメーションやディズニー、その他米国でのメジャーな映画・TV作品

アニメーション』と言えば実験アニメーション、自主制作アニメーション、アートアニメーションなど、上の『アニメ』に属さない、(現在での段階では)マイナーなアニメーション作品群

アートアニメーションとはなんだろうか(ArtAnimation私的調査室)

 

アニメの範囲にあるものの中は実はたくさんあって、その中で語りたい”アニメ”は現在見られるもの、30分×12話を1単位としたテレビアニメあるいは120分前後のアニメ映画で、そうなると非常に都合のいい区分け方しないといけなくなっちゃう。

アートアニメーションみたいなのとか好きな人もいると思うけど、自分が語りたい対象で敢えて区分けるなら、『鉄腕アトム』以降かなって感じに思われる。氷川竜介氏もそうしてるようだ。

氷川さんは今、明治大学大学院で客員教授(2018年4月より特任教授)として教鞭をとられています。講義は前期・後期に分かれ、前期はTVアニメを中心とする50年史。単に作家の歴史とかプロダクションの歴史ではなく、時代背景から含めた「アニメビジネス通史」と銘打っている講義です。

フリーは「仕事」こそが最強の営業である――氷川竜介の場合。【後編】 | フリーランス、40歳の壁 | ダイヤモンド・オンライン

www.nfaj.go.jphttp://www.nfaj.go.jp/exhibition/filmclassof2018-animation/

アニメの歴史 - Wikipedia

アニメ - Wikipedia


 

次に「アニメ理論」なるものを掲げるなら、アニメというメディアの特性を考えたり、アニメ独特の表現技法を学ぶことがこれに当たるだろう。

単に作画が良い悪いとかでなくて、絵の動かし方の特徴など、実際にアニメ作ってる方たち以外にはわかりにくいことが多そう。これも氷川竜介氏が明治大学の院で後期に教えてくれるらしい。教科書作って欲しいわ。

anime.eiga.com

diamond.jp

 

アニメ批評、となると、個々の作品について深めるって感じだと思う。これが一番興味ある。やっぱり自分が好きなものを深めたい。

でも、そのためにこそ古典を見たり、技術的に秀でたものを見るのも必要だと思う。面白そうだし。興味ないけど面白そうってのは確かにあって。好きなものをいろんな面から語れることには憧れるしかっこいいし。岡田斗司夫が「オタク・イズ・デッド」で語ったオタクのノブレス・オブリージュ的な感覚はなんかわかる。語る引き出しは多いほうがいい。

 

個人的に興味あるのはこういう感じの。

なんてくくったらいいのかわかんないけど、1回流し見しただけじゃ気づかないようなのが好み。見ればわかるわそんなん!!ってな奴を「考察」って言ってるのはやだ。考察どころか感想ですらなくて、セリフとキャプチャの列挙やんけ!みたいなの。

 

ディケイドもはやアニメじゃないやんけ!というのは尤もで、アニメを語りたいなどと言いつつ実際は好きな作品の知らない一面を見つけたいというのが1番の欲求なのかもしれない。見えるものから何が解釈しうるか?みたいな?ただストーリーをなぞるだけじゃなく。

そういう点で、多くのアニメ雑誌は設定画とか版権イラストみたいなビジュアルや監督、声優へのインタビューなど表層に終始している印象で、そこから何が解釈しうるか、とかが個人的には欲しい。

blog.livedoor.jp

 

aiba.livedoor.biz

 

www.yomiuri.co.jphttp://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3144http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3144

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里

 

でもこれだけじゃなくて、例えば「魔法少女」モノの歴史みたいなのには少なからず興味があったりして、「魔法少女まどか☆マギカ」からハードルが上がった(と自分は勝手に思ってる)「魔法少女」を冠する作品が、2018年春には「魔法少女サイト」「魔法少女 俺」と路線の違う2つが出てきたりして面白いなーとか、作品単体を深めるだけじゃなくジャンルの変遷だとか社会背景とかも興味はある。でもこれに気づけたのって、大学入ってリアタイするアニメのタイトルが増えたからってのはある。それは同時に、自分の中で”消化”傾向が強まったってことでもあって、複雑。

 

アニメを語る別な切り口として「メディア文藝」という考え方もあるらしい。

志水義夫氏によると、感動を伝達しようとする試みが文藝で、そのためのメディアが音声→文字→映像と変遷してきたのであって、映像によって語られるアニメも文藝たり得る、アカデミックに議論すべき、というもの。諸々の記事を読んでいると、80年代にアニメをアカデミックに議論しようとする流れはあったと目にしたが、それに関する詳しい情報は現状得られていないです。

あと、大学の授業でアニメを見たりすることはしばしばあるんですが、だいたいの人は何かしらアカデミックな専門領域を持っていて、アニメをダシに自分の主張をしたいだけ、学生の気を惹くためにアニメを利用してるに過ぎないのではないかと勘ぐってしまう。無論そういった大学教員の中には本当にアニメ好きな人もいっぱいいるだろうから一概にはいえないんだが。その点に関して「メディア文藝」という考え方を打ち出しているのはアニメそのものに焦点を当てていて好感。

とは言いつつも、例えば「君の名は。」にフロイトのこういう考えが反映されてる、という風にも読めますよ、みたいな解釈は面白いし興味あるし。そういう意味ではいろんな哲学やら”文学部としての教養”みたいの広く浅く知っておく必要はある。

志水義夫関連

http://love.ap.teacup.com/korremitz/html/mifuqusi201807ver1.0.pdf

https://www.amazon.co.jp/%E9%AD%94%E6%B3%95%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%81%8B%E2%98%86%E3%83%9E%E3%82%AE%E3%82%AB%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E9%8C%B2%E2%80%95%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E8%97%9D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8B%9B%E5%BE%85%E2%80%95-%E6%96%B0%E5%85%B8%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-71-%E5%BF%97%E6%B0%B4-%E7%BE%A9%E5%A4%AB/dp/4787961713/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1530689429&sr=1-2&refinements=p_27%3A%E5%BF%97%E6%B0%B4+%E7%BE%A9%E5%A4%AB

アニメを既存の学問に組み込む的な発想の本

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E3%81%A7%E8%AB%96%E6%96%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8F-%E3%80%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%82%92%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95-%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%A5%A8%E6%B2%BB/dp/4623079422/ref=pd_sim_14_1?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4623079422&pd_rd_r=0aaea13d-7f5e-11e8-8a71-0185372cf18d&pd_rd_w=UTGq0&pd_rd_wg=AetoN&pf_rd_i=desktop-dp-sims&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_p=7990452376513976631&pf_rd_r=B9HKNK5KJAYFNK31Z27Z&pf_rd_s=desktop-dp-sims&pf_rd_t=40701&psc=1&refRID=B9HKNK5KJAYFNK31Z27Z

 

実は「オタク・イズ・デッド」を見ながらここまで書いてて、そしたら「オタク・イズ・デッド」は自分にとっては無視できない内容だなと感じてきて。

好きな気持ちを持ってるだけでなく自分が周りの人に伝えるしかない、みたいな主張があって、それは当たらずも遠からずというか。
将来はアニメ作るかアニメ語るかおもちゃ作るかを仕事にしたいなーって自分が今なんとなく思ってるのは、アニメや変身ベルトの玩具に対する蔑視を払拭したいとか、仕事にすることで誰かにそういう自分が好きなものを認めさせたいとか、そういう欲求なのかなと感じたりして。
 
オタク・イズ・デッドに関連して話進めると、

オタクのノブレス・オブリージュ的な感覚について。

今自分が実際見てるのは、世間の評判が高いものでも学術的な評判が高いものでもなく、自分がみたいもの且つ手軽に見れるもの(リアタイとアマプラw)だったり。「アニメを語りたい」に真摯に向き合っているとは言い難い。

1stガンダムと初ゴジは見た。でもヤマトもマジンガーZマクロスもTV版エヴァも見てない。教養がない的な。「ロボットアニメが好きなんです〜」って言うとオジサンたちは「ファイブスター物語とかエルガイムとか知ってる?」「ダグラムとか知ってる?」とか聞かれるんだけど、「ガンダムはSEED以降なら。。。」「ヴァルヴレイヴとか好きです。」ってなる。

共通の話題が欲しい気持ちは確かにあるが、他人に合わせるために自分の好きじゃないものを見るのは違う、けど人に紹介されたものが気になってるのは確か。語れる人がいないというのは確かに根底にはあるのかもしれない。そういえば高校の頃は勧められた且つ見たいものを見てたし、ただただ流行ってるからってだけで見るのは嫌だった。でも流行ってる作品はなんだかんだ見てみたら面白いものはいっぱいあるし、好みじゃなさそうってだけで食わず嫌いするのもよくない。うーん。保留。

 

www.youtube.com

 

語る上で欠かせない要素の一つとして、「人気作品を語ったものは見てもらえるけど、そうでないものは見てもらえない」点はあると思う。

エヴァを語る本は本屋さんにもたくさん出てるけど、例えばヴァルヴレイヴ考察本なんてのはせいぜい同人誌止まりだと思うの。出版することへの拘りはあんまないけど、卒論とか仕事とかってなってくると、やっぱメジャー作品を語らざるを得ないというか。「君の名は。」とか好きだし語りたいし実際レポート書いたし。

好き100%で語るならブログ書いたりとかで全然構わないわけだけど。

 

ここまで書いて、とりあえず何か書かないとなんも始まらねえなということに気づく。語られたものを読んでしかいないので、まずは自分で語りましょうよ、と。

1個の作品にじっくり向き合うのはとっても難しいことだけど、好きに向き合っていきたい次第です。

 

 

ソードアートオンライン2期総括

1期をみて劇場版をみて、それから2期を見ましての感想を。

 

作中を貫いているのは

ゲームでの自分/リアルでの自分、ゲームでの経験/リアルでの経験、左右二者の一致と分裂で、キャラクター達は分裂に悩み一致を選び取る。読者が一致サイドに肩入れしやすいように、作者は限りなくリアルの感覚に近いゲームを設定したり、超かっこいい主人公が一致サイドだったり、そもそも読者層がオタクだからもともと一致サイドだったりして、それがオタクに支持される理由の一つかもしれない。

 

ファントムバレット編

大切な人を守るためにリアルで銃を撃ったシノンが、大切な人を守るためにゲームで銃を撃つことでその過去を克服する。

大切な人を守るためにゲームで人を切ったキリトは、人を切ったことを忘れていた罪悪感を乗り越え、それを自分と重ねることでシノンを救うことができた。

 

SAOという特異な設定がサバイバー達にもたらしたものは大きい。それはキリトでもアスナでも、デスガンでも、エイジでも。

キリトやアスナは、SAOに関連した、即ちゲームとリアルとの一致に関する困難に直面しそれを乗り越える。困難の象徴として何かしら敵キャラが出てくる。今回はデスガンこと新川兄弟。

"敵"は、何かしらゲームとリアルとの一致の仕方が歪んでいる。と思う。

新川兄はSAOでの殺戮者だった自分から戻ってこれなかった。新川弟は現実逃避としてゲームに傾倒しすぎたあまり、プレイヤーを現実に殺したいほど憎んだ。その利害の一致からデスガンが生まれた。

 

仮想世界なんかない、その人がいる場所が現実、だからこそキリトやアスナやサバイバーの面々はリアルでも会ったりして、リアルとゲームの両方での付き合いのバランスがある描き方をしてるのかな、なんて。彼らはたまたま幸せになったからよかったものの、サバイバーの誰もがその危うさを秘めており、彼らのifとして描かれてるとも言える。?てかこれ実質マトリックスなのでは?

 

ところで、新川くんの「ファンタジー系のゲームで夫婦になって子供作って」ってこんなに気持ち悪っぽく聞こえるんだなって面白い。須藤といい彼といいこのキモさと陵辱的なシーンは作者の趣味を感じる。ケーキの箱が潰れてくことで新川くんの愛情の歪さを表現してるのが印象的でした。

 

逆にいうと、VRMMOがリアルとゲームの区別をつけなくさせるほどの狂気の技術であるとも。

ゲームに逃避する、現実に逃避するんじゃなくて、ゲームの私が現実の私の背中を押してくれる、そういう風にありたいということ。それが殺人とかじゃダメなんだけど。ゲームとリアルの適切な関わり方てきな。

 

キャリバー編

映画での100層ボス攻略みたいなファンサービスにも思われる。でもなんか引っかかるところがあって、よくわからない。今度また。

 

マザーズロザリオ編

自由な身体を失った少女が、仮想の肉体を駆り束の間の生を謳歌する。

単に技術が幸せをもたらすアイデアだけでもびっくりしたけど、ゲームとリアルとを繋げる補強としても良い出来。ユウキが幸せだったことを誰が否定できよう。

ユウキが学校に行きたいと言った時、ALO内に学校を作ってみんなで学校ごっこをするのかとでも思ったのだけど、映画に出てきたユイのカメラを使うとは思わなんだ。

ゲーム世界での身体だけじゃなくて、部分的ながらリアル世界での身体をも獲得させてしまうことは、フルダイブ技術の可能性を存分に見せてくれる。

そこにフルダイブ技術に対するママの価値観の変容やアスナとママのやり取りを配置することで、お話により深みや重層さを増してくれている。アスナとユウキの相互的な関係を形成してくれている。

 

 

映画見てて思ったことが、わりと2期で直球表現されてたのは嬉しいようでちょっとがっかりもした。

思ってたよりだいぶ言葉で直球に説明されちゃってたのが、作者の掌で踊らされてた感がある。それでもお話が普通に面白かったのでよき。

 

修行について

サイボーグに関して、侵襲式の強化には抵抗を感じたのでその原因を探るべく考察しました。

身体的なアイデンティティの喪失に起因すると思ったのでそこから。

 

まず人間の身体能力の変化について、4つの分類を考えました。速度と+−に注目して、

・修行(+、遅い)

・老化(−、遅い)

・改造(+、速い)

・事故(−、速い)

改造ってのはサイボーグのこと、本題。

事故ってのは交通事故とかそういうやつ。

 

例えば、事故で全身不随になってしまったとしたら、それはきっととても辛いだろう

これについては創作と実話とで事例をいくつか挙げると、

海を飛ぶ夢

最強のふたり

・おしゃべり目玉の貫太郎

1個目の例は、全身不随を受け入れられずに安楽死を望む話。2、3個目の例は全身不随を受け入れてる話。3個目については、はじめは受け入れられなかったけど徐々に肯定したのだそう。ここから、身体的な変化に適応するには時間がかかるであろうということ。

では次に、老化による身体能力の低下について。実際に老化を体感したことはまだないが、例えば歳をとって重度の認知症になって自分や自分の周りのことがわからなくなってまで、或いは歳をとって歩いたり日常生活が自分だけでできなくなったりしてまで長生きしたいか、と考えてみる。これはめちゃくちゃ難しい問題だと思う。事故であれ老化であれ、今まで通りの生活が出来なくなったくらいでは人間の生命の尊厳は失われない、それでも必死に生きようとする姿こそ尊いとも言えるし、逆に最も理想的な状態で命を終わらせることを良しとする人もまたいるだろうし。

 

こんどは+方向について考えてみる。

スポーツの練習とか、勉強とか、身体で覚えるだとか感覚を身につけるとかそういうのが修行だと思ってる。

対する改造はサイボーグ化するとか、ガンダムに乗るとか、脳みそをインターネットにつなぐとかそういうこと。

未来に技術がどこまで行くかはわからないから想定できる範囲で話すと、

例えばガンダムに乗るとして、ゲームが上手い人が乗るのと、飛行機のパイロットが乗るのと、武道の経験がある人が乗るのとではポテンシャルが違うよねって思って、そしたら結局は修行と改造の併用共存が必要になる。

脳みそをインターネットにつないでいつでもGoogle検索かけられるとして、ある程度基礎知識がないと何て検索すればいいかわからないよね、とかそういう。

で、もしテクノロジーによってゲームの経験とか飛行機操縦経験とか武道経験とかが補えるとしたら、つまり意志とは関係なく動くとしたら、それは果たして本当に自分がガンダムを操縦してると言えるのか、すなわちそれはただの自律駆動人形となってパイロットを必要としないのではないかと。

ユニコーンガンダムがいくら脳波をダイレクトに読み取るからといって、阿頼耶識システムがいくら直感的に操縦できるからって、パイロットに戦闘経験がないと銃弾や斬撃には反応できないはずで。

そしたら結局身体能力を強化するとは言えなくなってるわけで。

自分がサイボーグになってたりガンダムに乗ってるってことは他の皆もまた同じような強化を施されていると考えるのが妥当だからまあそうなると思う。アニメの主人公なんかは他と違う特別な強化を施されるけど現実的ではないかな。

この発想は結構大事だと思ってて、すなわちサイボーグ化というのは画一化と同じってこと、ここにもアイデンティティの危機が出てくると思う。単に急激な変化だからってじゃなくて。

 

するとだな、最初に示したうち能力が低下する方は検討する必要ないってことになるか。、、、

 

肉体が画一化されるとその個性はパイロット(精神、経験値?)の能力に依存するし、それすらも技術により画一化するならばそこに生身の人間は最早必要ない。

そしたら意識をネットにアップロードした新たな生命のかたちが生まれるのかな。それは想像することすら難しい。。、

 

生物の遺伝子の本懐として、なるべく多様化し個性を生むことでイレギュラーに対応し種を保存するっていうのがあると思うんだけど、肉体の画一化はそれに反するよねと思う。

 

 

この手のことを考えてるといつも結論は出ないものだ。。。今日はこれにて閉幕。。。。。。、

「ポストヒューマン論」

近年、シンギュラリティやらムーアの法則やらなんたらで、AIが人間を超えてしまうことが危惧される。同時に、フィクションであるSF作品に現実の技術が追いつくことが予想されることから、それに伴い発生するであろう問題をSFに見いだすことも盛んになされる。

 

AI或いは機械が道具として抱える問題は、やはり自らが生み出したものに凌駕されてしまう(可能性がある)ことだろう。道具は人間の支配下にある時は非常に便利なものであるが、支配から逸脱してしまった時にそれは危険なものになってしまう。現存する他の多くの道具と同じように、適切に使用することで人間を助ける存在として共存できるだろう。

加えて、AI特有の問題としては、AIが「動物の中の人間」としてのアイデンティティを脅かしうることが挙げられる。道具とは人間のある能力を拡張したものであり、本質的に人間の能力を(一部分は)超越している。その中でAIは人間の脳、知能を拡張したものである。知能は、動物の中の人間を特徴づけると同時に優等種たらしめるアイデンティティであり、それをAIによって脅かされることに抵抗を覚えるのは当然ともいえる。しかもその相手が、自分が作り出したものとなると、それはなおのことだろう。

「フレンズによってとくいなことはちがうから!」とはいかないだろう。

こうした技術の発展において、もうひとつの問題が浮上する。

技術と融合してゆく人間はその形態を大きく変える可能性があるということだ。

ダナ・ハラウェイは「サイボーグ宣言」において「人間/機械/動物の境界が曖昧化したもの」をサイボーグと定義していて、これらサイボーグは現在の我々にとって身近なものになりつつある。フィクションのSF作品においても、サイボーグは頻繁に扱われる。

遺伝子によって少しずつ姿形を変える生物の進化に対し、技術は生物を急激に変化させる。急激な変化は如実に露顕するため、その変化に生命観や倫理観などの肌感覚が追いつかなくなってしまうのではないだろうか。

これは人間の定義に触れ、その再考を迫る(アップデートされる)。

「人間に似ているが何かが欠けている存在」は普段意識しない人間観を炙り出し再考を迫り、それを人間と捉えるかどうかで、人間の定義に必要な構成要素や新しい人間の姿が見えてくるのだ。

 

 

 

と、ここまで書いて『文系人間のための「AI」論』という本を読んだ。

 機械が人間を超えた後の人間と機械の姿について、双方を互いに補い合うかたちでサイボーグとして共存してゆくだろう、という考えのもと具体的に未来の人間の姿や課題について考察されていた。

個人的には、創作における人間とロボットには関心があったが、現実に結びつけることにあまり興味がなかった。しかし、自分の関心であった「ロボットを人間に見立てること」は機械を道具と使役することではなく、ロボットと人間を対等な存在と考え共存を図ることが相応しいと思い読み進めたわけでありんす。

自分はロボットを人造人間と広く捉えていたが、その中でも特に機械やインターネット、BMIに絞った氏の発想は新鮮なものであった。

人間の肉体というものは、周囲と自分を隔絶する境界であり、同時に外界の情報を収集する端末でもある。これを捨てることは今現在の人間の肌感覚からは遠くかけ離れており叶わないものと思われる。がしかし、いずれ人間は肉体から意識をデータとしてアップロードし仮想世界で生活するようになることもまた考えられるという。

SAOやドライブのクリムや蛮野博士、ID-0とか

ヴァルヴレイヴでは、肉体と生死を共にする人間と、他の生物の肉体を転々とする精神生命体マギウス、そして両者の特性を取り込んだハイブリッドたるカミツキが存在する。共存してたかと言われると微妙。共存というか協力してたからカミツキ製造機が作れたわけだけど、なんかよくわかんねえ。やっぱヴァルヴレイヴ面白いな

同じサイボーグという言葉を使ってても、機械で肉体を拡張するのと、肉体を捨てて意識をネットに上げるのは全く別物だなとは感じる。肉体を拡張するのか精神を拡張するのかってとこなのかな?目に見えないところを弄るとなると怖い気がするけど、そういうとこって無自覚のうちに変わってたりもするもので。意識がネットワークに接続されることで精神の境界がなくなるってのは、コードギアスとかでもあったアーカーシャの剣か集合的無意識かみたいなのも思い浮かぶ。

便利さを求める欲望と、大きすぎる変化によって自己同一性が失われる恐怖と板挟みのジレンマは脳の可塑性によって受け入れられ、技術の発達は進んでいってしまうとしている。その例として、文字に関するプラトンのテクノロジー論などを示した。技術に関するジレンマが今に始まったことではなく、人間はそれを受け入れて変化してきたのだ。しかしやはり急激な変化は自己同一性を損い、受け入れ難く感じてしまうと思う。。。

 

創作だとキャラクターに感情移入するため比較的受け入れやすいというか、既存の価値観を打ち破ることができそうな感じもする。。。何が言いたいかわからなくなってきたワ。。。

前半と後半で1週間跨いだから話題がゴチャゴチャなんだけど、前半は例の本の前半ちょっとを読んで書いた、後半は全部読み終わってから書いた。

ソードアート・オンラインと仮面ライダーエグゼイド 〜ゲームと現実を繋ぐ〜

 

プレイヤーが死んでしまうゲームという点で似てると思った2作を比べてみようかなと思い書き始めましたが、書いてみたら意外と全然似てなかった

 

ソードアート・オンライン」作中に登場するゲーム「ソードアート・オンライン」は、ナーヴギアを使って意識をゲーム世界にフルダイブしてプレイするVRゲーム。ゲームオーバーとなったプレイヤーは現実世界でも死亡してしまう。

 

仮面ライダーエグゼイド」作中に登場するゲーム「仮面ライダークロニクル」は、一般市民がライドプレイヤーに変身して、ゲーム世界から現実世界に現れたバグスターと戦うゲーム。しかしゲームオーバーにとなったプレイヤーは消滅(死亡)してしまう。

 

類似点

ゲームで人が死ぬ。

ゲーム世界(仮想世界)と現実世界を繋ぐものである。

 

相違点

プレイヤーがゲーム世界に行くのか、敵キャラが現実世界に来るのか。

ここがSAOとOSの比較と1番違うところかな。

ゲームの敵キャラによる反逆は、ライダーと怪人が本来は同胞であり、敵である怪人にも同情(感情移入)するように作られた仮面ライダーならではの切り口であると思う。同時に、創造主への反逆、親殺しといったテーマをも内包しうる。

 

ゲームでの死と現実世界での死を結びつけるという同じ事象でも作品によって大きく意味合いが違ったわけでした。

 

 

SAOについては別記事で一応詳しく書いているのでそちらも参照されたし。

http://plastix.hatenablog.com/entry/2017/03/14/034146

 

SAOは、コンティニューできないゲームから、人生は一度きりであって過去はやり直せないこと、だからこそ一瞬一瞬を大事に生きようということが語られた。

 

エグゼイドは、人に作られ消費されるだけのコンテンツであり情報にすぎないゲームの敵キャラが、人間に復讐する。

人間のエゴによって生み出され消費される家畜のような存在、大量消費社会の被害者は大勢いるだろう。

それらが意思を持って反逆したら...というお話、なのかな。

命に関わるという点から、ドクター(医者)とも絡めてお話が現在展開されています。

ゲームキャラの能力を書き換える、チートにも神にも等しい能力を得た永夢くんはこれからどうなってしまうのでしょう、、、危うさしか感じないが、、、

 

「劇場版ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」感想と考察

2ヶ月ぶり。

ソードアート・オンラインの映画を見てきたので忘れないうちに書き留めておこう。原作は未読、アニメは1期しか見てないですがその内容も踏まえて。セリフはうろ覚えだしユナと悠那は全部ユナって書いてるし細かいとこは適当になっちった。 

 

 劇場版の目玉はなんといってもAR。

VR・・・仮想を現実化する、仮想世界を現実だと錯覚させる

AR・・・現実を仮想化する、現実を仮想世界だと錯覚させる

これは重村教授の講義でのキリトからの指摘で明確に言語化されていた点。

オーグマー(AR)とアミュスフィア(VR)は両者とも現実と仮想を繋ぐガジェット。

AR側は経産省と関わってたり、ARでの体験に応じてクーポン券を発行したり、ブイブイ現実側に干渉しているなという印象。

対するVRでの体験、経験は実体を伴わないもの。意識だけを肉体から切り離してるから、そこでの経験は記憶にしか残らない。SAOクリア後にキリトが竹刀を剣の如く振って思い通りにいかなかったように、自分の意識に肉体の制動が追いつかないみたいなことも起きる。これは重村教授が講義でもVRのリスクの1つに挙げてて、逆にARのオーグマーの方はフィットネスに活用されてたり。経験が肉体に蓄積されるかというところ。まぁ記憶は物理存在である脳に蓄積されるんだけど笑

 

 アニメ1期では、そうした仮想世界で築かれた、形の残らない記憶だけの関係の強さ、それは確かに存在してるんだよってことを示した。

SAOでは仮想世界で現実さながらの関係を築き、同時に、仮想世界の夢から覚めることで仮想世界での経験が失われることを恐れた。ALOでは、仮想世界での経験や関係は確かに現実まで続いているんだ、という力強さを示した。

だから、「これは、ゲームであっても遊びじゃない。」

 現実世界でもキリトとアスナは恋人で、たまにはみんな集まってオフ会をして、VRでの経験は現実に繋がってる。ミクロ化するなら、顔の見えないインターネットの向こう側にも生きた人がいるんだよ、的な?

 そういう点で、VRから始まったキリトとアスナの恋愛関係とその描写は本作において必要不可欠なもの。キリトとアスナの仮想世界での想いの象徴たるユイ、肉体を持たないAIという存在(二人の関係に魅せられたと直接語られてもいるが)ゆえにあえてユイは二人の子供でなくてはならないと思う。余談だが「死んでもいいゲームなんてヌルすぎるぜ」と一度は仮想と現実を切り離したキリトだったが、それはグランドクエストでのリーファの必死の救出によって否定?救済?されたんじゃなかろうか。

 

  そして劇場版では、その関係の脆弱な一面を、実際に記憶を消してみせることで示し、二人はその試練を打ち破った。死の恐怖に怯えるのはSAO時代のエイジすなわちノーチラスと同じ。剣を抜き敵に挑むは、死の恐怖に打ち勝った者だけ。SAO第100層のボス戦に挑むアスナの姿よ。

 

 思い出に実体はないけど、経験を共有した人たちの間には確かに存在していて、でもそれは同時に脆くはかないものでもあって。その脆さを補うアイテムとして、アスナの日記だったり、文字に記録するって方法がある。SAO事件何ちゃらって本もここに入るかなって思ったけどやっぱちょっと違うかな。

 

個人的に、物が記憶や想像のトリガーになったり、物が記憶の依代になったりすることに関心があったので、本作での「実体はないけど確かに存在しているもの」というのは何かとビシビシくるものがあった。

 

 

 劇場版もう一つの目玉、新キャラのエイジについて。

エイジとユナは、キリトとアスナの、あり得た可能性の姿、if的存在でもある。2組とも仮想世界で生まれた関係。 もしアスナがSAOの犠牲になっていたら。キリトはアスナを救うためならなんだってするだろうし、実際にALOではアスナのため必死に戦った。まだ現実では話したこともなかったのに。エイジにとってのユナもきっと同じ。

 ここでエイジと重村教授について。エイジはSAOではボス攻略で活躍できず、名前が本に載らなかった。忘れ去られた存在。ユナを始め他にもそういうプレイヤーは大勢いるでしょう。アスナは覚えててくれたけどね。重村教授はSAOというデスゲームの犠牲になったプレイヤーの遺族。両者ともアニメ1期では描かれなかった、影の存在。

二人は元SAOプレイヤーたちの記憶の断片をもとにユナの人格形成を試みる。人と人とが共有してる経験とか記憶が思い出なんだろうけど、逆に記憶から人を作っちゃうという。

SAOでの経験は辛い記憶ばかり、みんな本当は忘れたいと思っているんじゃないのか?と重村教授。

 

大切な人を守りたくても足がすくんで動けなかった。戦う覚悟を決められなかったSAOでの自分、血盟騎士団のノーチラスを否定しながらも、SAOで知り合ったユナへの思いを持ち続け現実世界で行動を起こすエイジは矛盾していて、それは自分のSAO時代の記憶を抜き取られる瞬間に初めて自覚された。

 

エイジが纏うパワードスーツはAR上でのチートであり、実力の伴わない借り物の力。VRのアバターと同じ。彼が否定した伝説の「黒の剣士」の力に同じ。3週目の入場者特典の小説を読めていないので、それ読むとこの辺の認識変わる気がする。だれか貸してくれ。エイジがやたら攻略メンバー恨んでるのもなんでか思い出せん。単なる嫉妬とかではないよなあ、なんだっけ。ここ保留で

 

重村教授に対するユナの最期の言葉「お父さんとの思い出の中で私は生きている」は、エイジのSAOでのユナとの思い出と、重村教授の現実でのユナとの思い出の両方を肯定する救いになっているといいな。。。

ユナはエイジにも最期に何か言ってたよな、これも覚えていない・・・。 

 

AIのユナがSAO後日談の本に興味を示した理由はまだわからん、保留。

 

 

 死の恐怖を乗り越えボスに挑んだ攻略組だからこそ、英雄と語られる「黒の剣士」だからこそ、そして何よりSAOでの記憶と向き合っているからこそ、キリトはエイジに「過去の自分を受け入れられない奴に負けるわけにはいかない」と強く出る。あれここなんて言ってたっけ違う気がする。実際、攻略組よりもそうでないプレイヤーの方が多かっただろうし、戦いに目を背けたからといって一概にエイジを責められないところではあるんだけど。SAOで楽しそうにしてた人はキリトとアスナだけだったってユイも言ってたくらいだし、SAOでの記憶を大事に思えるSAOサバイバーは少ないかもしれないけど、やはり本作のテーマは「過去をなかったことには出来ない」ことかな、なんて思うとキリトはここで勝たなくちゃいけない。

 

 

本に名前が刻まれなかった、世間一般にその名を知られることのない多くのプレイヤーや犠牲者がいたことを、戦地に赴きボスを攻略したプレイヤーだけがSAOの全てじゃなかったということを、どうか忘れないでいて、という祈り、なのかな。

 

 

 現実だろうと仮想世界だろうと、あったことをなかったことには出来ない。出来ないし、しちゃいけないんだ。それこそがテーマソング「Catch the moment」に語られた一期一会の精神。エイジも、SAOの、ユナの記憶を失いそうになってようやくそのことに気づいた。

もう一度やり直したら君に出会えないかも。 

ゲームのセーブデータはやり直せるけど現実にコンティニューは無くて、それはSAOのデスゲームが見せた世界そのものでもあって。過去をなかったことには出来ない。やり直せない。

今の現実を生きる自分も、忘れたくてもわすれられないこといっぱいあるけど、向き合っていかなくちゃいけない。

 

まだまだ見落としてることはいっぱいあるけど、ひとまず、本当によく練られた、最高の続編だったと思う。

 

 ※3月18日加筆

 キリトがエイジに勝てたのはエイジが過去から目を背けていたのに対しキリトは過去に向き合っていたから。という旨。

SAOでのことはもちろん、キリトは義理の妹(?)・直葉と向き合おうとしていた点でも、そうなのだなと思った。やっと直葉が見えてきた。

ユナを生き返らせようとするのも、過去と向き合えてないと言えてしまうのがエイジくんカワイソス。

 アスナに会えて、2人とも生き延びて、キリトくんはめちゃくちゃラッキーな境遇にあるってことやね。

 

9月30日追記

SAO記録全集を持ったエイジの「攻略組でないと覚えてもらうことすらできない」に対して2人の幸せな時間をいつまでも覚えていたいキリトとアスナ。記憶に対する観の違い的な。大勢の人から覚えててもらいたいっていう知名度とか名声欲みたいなんでなくて、本人当人にとってのみ価値があればそれでいいみたいな、と思います。当人固有の経験はその人にとってのみ価値が認められるものですよね。

かといってエイジくんが本に載りたかった、或いはユナが本に載ってて欲しかったって思ってたわけじゃなくて、羨ましかったとか拗ねてたとかそういう感じな気がする。黒の剣士とか閃光とかもそういう皮肉ですよね。そういう点ではSAO記録全集第二版に加筆されたって話は蛇足に思えてならない。そういう救済は違うかなって思ったり。

キリトくんに論破されたエイジくんはここから前に進めるかしら。地下の駐車場から出てきてくれたのできっと大丈夫かな。キリトくんが勝者の理屈じゃんと思っていたのだが、それは上で言った、たくさんの人に覚えてて欲しい、ではなくて、2人の間で覚えていたい、っていうそれが良かったなと思った。まあアスナが生きててユナが死んでて、それゆえにキリトとエイジの行動はああも違ってたというのはやはり否めない。、、、。

 

あと内容とは別で思ったこと。映画館で見るのと家で見るのとでは全然違う体験だなってこと。映画館は映画だけに集中せざるを得ない環境で、それゆえに色々思うところがあったのだろうけれど、レンタルを家で見た時には映画館で見たことを追体験することは出来なかったように感じた。2回目だからってのもあるかもしれないけど、同じ作品を映画館と家という違う環境で見ることで、映画館という空間の良さを感じた気がする。

遊戯王《水晶機巧》相手ターンシンクロまとめ

クリストロンデッキを使っていて、相手ターンのどのタイミングでシンクロ召喚していいのかメチャクチャ迷ったから調べました。wiki等の文章をクリストロンの効果向けにまとめなおしてみた。

  

 まずチューナーの効果から。

水晶機巧チューナー

「水晶機巧-〇〇」の効果は1ターンに1度しか使用できない。

(1):相手のメインフェイズ及びバトルフェイズに発動できる。

〇〇からチューナー以外のモンスター1体を効果を無効にして特殊召喚し、そのモンスターとこのカードのみを素材として機械族Sモンスター1体をS召喚する。

 

《フォーミュラ・シンクロン》

(2):相手メインフェイズに発動できる。

このカードを含む自分フィールドのモンスターをS素材としてS召喚する。

 クリストロンチューナーの共通効果および所謂アクセルシンクロと呼ばれる相手ターンにシンクロできる効果は誘発即時効果スペルスピード2に分類される。

で、この誘発即時効果が相手ターンのどのタイミングに使えるのかということが知りたい。
 ここで登場するのが「優先権」。まずはwikiの説明から。

 

優先権/Priority

  各フェイズやステップでカードを最初に発動する権利は、常にターンを進めているターンプレイヤーにあります。これをターンプレイヤーの「優先権」といいます。
 相手プレイヤーは、ターンプレイヤーが優先権を持っている限り、自動的に発動する誘発効果以外は、先にカードを発動する事ができません。
 「優先権を行使してカードを発動した場合」と「優先権を放棄した場合」、優先権は自動的に相手プレイヤーに移ります

 

 つまり、相手ターンに優先権が相手プレイヤーから自分に移った時に、誘発即時効果の発動、すなわち相手ターンシンクロが行える。

 

 ひとつめ

以下の発動をした場合(直後に優先権は相手に移る)
  • スペルスピードに関わらず、魔法カードと罠カードのカードの発動時および効果の発動時。
  • 効果モンスターの起動効果、誘発即時効果、誘発効果の発動時。

カードの発動にチェーンして別のプレイヤーが効果を発動できるのはこのルールによるもの。ここで効果の発動に対してチェーンする権利をお互いに放棄すると、効果の発動が終わって効果の処理が始まる。

 

このルールに従いチェーンを組んでシンクロすると、

例えばチェーン1に相手が効果発動、チェーン2に効果でシンクロ召喚、とすると、

逆順処理が行われて、チェーン2のシンクロ召喚→チェーン1の効果処理、となるから

召喚に成功した後にチェーン1の処理が挟まるから「召喚に成功した時」っていうタイミングがなくなる。 チェーンの処理中に新しい効果は発動できない(チェーンブロックを組めない)。

「召喚に成功した時」がなくなると、《奈落の落とし穴》や《激流葬》の発動タイミングがなくなるので、召喚が妨害されにくい一方で、《ブラックローズドラゴン》や《氷結界の龍トリシューラ》のように「このカードがシンクロ召喚に成功した時発動できる」と書かれた時の任意効果も発動タイミングを失ってしまう点に注意。

 

 

 ふたつめ

 ターンプレイヤーが各フェイズ、各ステップを次に移行することを示すこと、および、その行動を相手プレイヤーが承認すること。

 

相手のメインフェイズ終了時にブラロぶっぱとかはこれ。

でも、メインフェイズ中にシンクロ素材モンスターを除去されるとコレは決まらない。

なーんだ、相手ターンブラロぶっぱってあんまり出来ないんじゃないの?

いえいえ、そんなことは御座いません、ちゃんとチェーン1で相手ターンシンクロできるタイミングはまだあるのです。

 

 

 みっつめ

  • 優先権の放棄について。
    優先権の放棄をする必要のある行動は以下のものがある。
    これらの行動は「お互いの優先権の放棄」をした直後、ターンプレイヤーができることである。
    • カードをプレイする場合
      メインフェイズにて、何らかのカードプレイをした後に新たに次の内容のカードプレイをしようとするとき。
      • モンスターの召喚・反転召喚・特殊召喚、表示形式の変更
      • カードのセット
      • スペルスピード1の魔法カードの発動
      • モンスターの起動効果の発動
      何も言わずにターンプレイヤーがこれらの行動を引き続き行おうとした際に相手が異議を唱えて巻き戻す事が可能である。
      すなわち、一つ目の効果処理直後のタイミングに戻りクイックエフェクト(スペルスピード2以上の効果)を発動することができる。

 

つまり、効果の処理が終わってから、次に新しくスペルスピード1にあたる能動的な行動をする前に、「効果解決時の処理直後」というタイミングが挟まるから、そこでクイックエフェクトをチェーン1として発動する権利があるということ。

例:《テラ・フォーミング》でフィールド魔法をサーチした後、発動する前に《マインドクラッシュ》で落とされる等

 相手ターンにチェーン1でシンクロ召喚すると、「召喚に成功した時」のいわゆる奈落タイミングが発生するので(《融合》などのチェーンブロックに乗る特殊召喚と同じ)、連続して相手ターンシンクロが狙える。あるいは、シンクロ召喚する効果の処理が終わった後に再びこのタイミングが訪れる。いずれにせよ連続シンクロは出来る。

 

優先権絡みのタイミングはたぶんこの3通り。

 

クリストロンだと、クリストロンチューナーの共通効果でシンクロチューナーをシンクロ召喚した後に、シンクロチューナーの効果で大型シンクロを立てることが多いから、シンクロ効果の発動タイミングは多ければ多いほど良いわけで、タイミング知ってると知らないとでプレイングが全然違うよなーと思う。

 

間違ってるところがあったらコメント等指摘お願いします。